聖書のみことば
2022年7月
  7月3日 7月10日 7月17日 7月24日 7月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月3日主日礼拝音声

 受難予告と弟子たち
2022年7月第1主日礼拝 7月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第8章31〜33節

<31節>それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。<32節>しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。<33節>イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 ただいまマルコによる福音書8章31節から33節までをご一緒にお聞きしました。31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。「主イエスの受難予告」と言い慣わされている記事で、今日の説教題にもその言葉を使っています。主イエスがこれとよく似た受難予告をなさる場面は、マルコによる福音書にあと2回、9章31節と10章33節34節に出てきます。主イエスの受難予告については、「主イエスが一度限りおっしゃった言葉が印象的だったので後々まで弟子たちの間に語り伝えられ、その結果、もともとは一度の出来事が3通りの伝承になり、福音書記者マルコがその全てを書いた」と説明をする聖書研究者たちがいます。

 しかし聖書を読んでいますと、果たしてそうなのだろうかと率直に思います。特に第2回目の受難予告の記事を読みますと、主イエスの受難予告を聞いた時に、弟子たちはそれを繰り返し思い起こして話し合ったというよりは、むしろ、教えられた内容に肝をつぶし、聞かなかったことにして済まそうとする思いの方が強かったような印象を受けます。9章31節32節に「それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。普段は分からないことや疑問があれば、内々にでも主イエスにお尋ねすることが多かった弟子たちが、ここでは「怖くて尋ねられなかった」と言われています。明らかに弟子たちはこの話題に触れることを好まなかったのです。
 そうであれば、弟子たちが繰り返しこのことを話し合ったとは考えにくく、むしろ3回記されている受難予告は、このいずれもが、主イエスが繰り返してこのことを弟子たちに教えようとなさった記録なのだと考えることができるように思います。もしかすると、マルコによる福音書に記録されているのは3回だけですが、それよりもずっと多く、主イエスは弟子たちに繰り返し教えようとなさったのかもしれません。
 私たちは今日、「主イエスが十字架に架かられ、三日目に復活なさった」という出来事を知っていますから、「主イエスの受難予告」と簡単に言ってしまうのです。けれども考えてみますと、まだ十字架の出来事は起こっていないわけですから、弟子たちにとって、この予告通りに自分たちの先生が敵に捕らえられ処刑されてしまうという未来図は、素直にそれを聞くことができなかっただろうと思います。ですから主イエスは、繰り返してこのことを弟子たちに教えなくてはならなかったのでしょう。

 また今日の箇所を少し丁寧に読みますと、主イエスが実に注意深く言葉を選んで弟子たちに語っておられる様子を知ることができます。もう一度31節を読みますと「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。日本語では言語の性質上どうしても述語が最後になりますが、原文では、まず最初に「主イエスが始めた」と書かれています。何を始められたのかというと、「弟子たちに教えること」を始められたのでした。
 先週聞いた箇所では、主イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という大変重大な問いを尋ねられ、それに対してペトロが弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と答えていました。「メシア」は原文では「キリスト」という言葉ですから、ペトロは主イエスのことを「あなたはキリスト、救い主です」とお答えしたことになります。「主イエスがキリストである。救い主である」という言い方は、最も短く信仰を言い表している言葉です。私たちも「主イエス・キリスト」という言葉を口に上らせることがありますが、その場合に、「キリスト」というのは当たり前のことですが苗字ではなく、「主イエスこそが救い主なのだ」ということを言い表しているのです。先週聞いた箇所には、「主イエスは救い主である」と最初に言い表された記念すべき出来事が記されていました。
 ところが主イエスは、弟子たちのこの信仰告白の言葉に対して、「わたしがキリスト、メシアであることを誰にも話さないようにと戒められた」と言われていました。どうしてでしょうか。
 主イエスがキリストであり、救い主であるという事実、それ自体は正しいことです。けれども、当時ペトロをはじめとする弟子たちが「キリスト」という言葉で思い描いていた、自分たちを救ってくださる方のイメージというのは、主イエス御自身がこれから救い主としてなさろうとしている実際の業とはかけ離れていました。弟子たちは確かに、主イエスを救い主だと正しく言い当てましたけれども、「救い主とはどういう方なのか」ということまでは、はっきり弁えているわけではありませんでした。ですから、弟子たちが「主イエスは救い主である」と簡単に言ってしまうと、実際の主イエスの救い主としての業とはずいぶん違ったイメージが広まってしまうことになりかねません。それで主イエスは、ひとまずは誰にも言ってはならないと弟子たちに釘を刺した上で、それに続く今日の箇所で、「本当の救い主としての働きとは何か。これからどのようになっていくのか」ということを、「弟子たちに教えることを始められた」のでした。
 また先々週は、ベトサイダで、目の不自由な人を主イエスが見えるようになさった話を聞きました。目の不自由だった人の視力の回復は簡単に行われたのではありません。少しずつ少しずつ見えるようになっていって、その中で主イエスは「何か見えるか」と言葉をかけながらその人を癒しておられました。考えてみますと、今日の箇所で主イエスが始められたことというのは、それとよく似ています。弟子たちは主イエスのことを「救い主、キリスト」と言い表しています。おぼろげに「主イエスは救い主だ」ということを分かり始めているのです。しかしそれはまだ本当におぼろな姿であって、救い主である主イエスの姿がはっきりと弟子たちに分かっているわけではありません。それで主イエスは、この機会をとらえて、主イエスがこれから向かっていかれる救い主としての御業がどういうものであるかをはっきりと「教えられ始めた」のでした。

 ところで主イエスは、救い主としての働きを説明する際に、極めて慎重に、また正しく厳密に言葉を選びながら弟子たちを教えられました。31節で主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とおっしゃり、「メシアとはどういう救い主なのか」をより厳密に理解させるために、「人の子」という言い方をなさいました。
 試しに言葉を入れ替えてみると分かるのですが、31節の「人の子は」というところに「メシアは」とか「キリストは」という主語を当てはめても文章とすればスムーズに流れますし、また直前にペトロは、「あなたは、メシアです」と言ったわけですから、「あなたの言うメシアは、キリストは」と説明しても良さそうに思えるのですが、それでも主イエスはわざわざここで、「人の子は」という言い方をなさっています。
 主イエスの考えによれば、主イエスの救い主としての御業というのは、主イエスがあくまでも「人の子として行動することによって果たされていく」のです。そのことを弟子たちに分からせるために、「あなたは、メシアです」というペトロの言葉にかぶせるようにして、「人の子はこのように働くことになる」と教えられました。

 では、主イエスが意図をもって「人の子」という言葉を使っておられるのであれば、その言葉にどういう意味を込めておられるのでしょうか。そのことを知るために、主イエスの時代に「人の子」という言葉にどういう意味合いがあったのかということを考えてみたいのです。調べてみますと、「人の子」という言葉には、当時三つぐらいの意味合いがあったことが分かります。
 まず、一番一般的な言葉で、主イエスも日頃話しておられたアラム語の日常会話の中で「人の子」と言う時には、これはごく普通の人間を指す言葉でした。考えてみますと、人間は皆「人の子」なのです。私たちも人間の母親から生まれていますし、人の子というのは人から生まれた子供ですから、人間です。そういう意味で使われる場合には、単に「人は」と言い換えて良いと思います。
 しかし、単なる「人」という意味とは別の意味もありました。旧約聖書ダニエル書7章を開くと、そこではある特別な人物を指して「人の子」と言われていました。ダニエル書7章13節14節に「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない」とあります。ダニエルは不思議な幻を見るのですが、示された幻の意味を知りたいと悩んで願います。するとこの幻の意味は、終わりの日に神による審判が行われることを表す幻であって、「人の子」はその時に一切の権威を神から与えられる人物だということが示されていきます。ですからダニエル書に出てくる「人の子」を念頭に置く時には、「人の子」はただの人間ということではなくて、「終わりの日に神から一切の権威を委ねられる王者となる人」ということになります。

 そして、この二つの意味合いからさらに進んで、第三の人の子の姿も示されるようになります。これはイザヤ書の後半に出てくる一人の僕(しもべ)の姿です。この僕は「苦難の僕」と言われたりします。イザヤ書42章から53章の間に所々、数えてみますと5回ほどこの僕が登場します。「神から権威を与えられる僕」は、イスラエルの全ての罪を自らの身に受けて苦しみ、そして神から裁かれ、ついに命を取られてしまいます。しかしその死は身代わりとしての死であって、この僕は他の人間のために自分の命を捧げる、その働きのゆえに神によって高く揚げられ、権威を与えられるようになります。5回出てくる一番最後の箇所、イザヤ書53章5節には「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。神に打たれたこの僕が、神から栄光を与えられるようになるのです。

 主イエスは、「救い主は人の子である」という言い方をなさいました。そういう言い方で主イエスは、「救い主、メシアは必ず神さまの御心に従って行動する。しかしその時に神さまは全ての人間の罪を『一人の人の子』に背負わせて滅ぼし、それによって人間の罪を清算してくださり、そこから人間が神の慈しみを受けられるようにしてくださる。そういう人物として、『人の子』は高く掲げられ、神さまからの権威を与えられるようになる」と教えられました。
 ここから主イエスはエルサレムに向かって行かれるのですが、今日の箇所で主イエスは、「エルサレムの十字架に向かっての歩みは、まさしくそういう神の御業を果たす行いなのだ」ということを、弟子たちに向かってはっきりと「教え始められた」のでした。

 ところで、そのようにはっきりと主イエスから教えられた弟子たちですが、弟子たちからしますと、この「主イエスの救い主としての御業」というものは、なかなか飲み込めないものでした。
 それでペトロがイエスを脇にお連れして、諫めようとしました。マルコによる福音書に戻りますが8章32節の後半に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とあります。ここは面白い言い方ですが、主イエスが弟子たちを教えることを始めたように、「ペトロは始めた」という言い方になっています。何を始めたかというと、「いさめることを始めた」のでした。弟子たちから「あなたはメシア」と言われたのを受けて、主イエスがメシア、救い主としての行動を始められた、すると教えられた弟子たちも一つの行動を始めた、そう語られています。

 ペトロが主イエスを脇へお連れして「いさめた」と言われている言葉は、翻訳が難しい言葉ですが、もともとは「何かの目的をもって捕らえる、留めようとする」という言葉です。今日の箇所では、結果的にペトロが主イエスの意図を理解せず邪魔をするようなことになっていますから、ペトロは主イエスから大変厳しい言葉を受けることになります。
 しかしペトロ自身の思いからしますと、主イエスの邪魔をしようなどとは全く思っていないのです。むしろペトロ自身は、大変主イエスに対して好意的に振舞っているつもりで、脇の方へお連れするのです。
 「わきへお連れして、いさめ始めた」という言葉は、使徒言行録28章2節で全く同じ文字が出てくるのですが、そこではどう訳されているかと言いますと、船が難破して命からがら岸辺に泳ぎ着いた人たちを土地の人たちが「親切にもてなした」と訳されています。「もてなす」という言葉が、「脇に連れて行って、いさめる」という言葉と同じ言葉なのです。「もてなす」と「いさめる」がどう繋がるのか、日本語的にはピンとこないかもしれません。それが翻訳の難しさですが、今日の箇所で、ペトロ自身はまさか自分が叱られるとは少しも思わないで、主イエスを脇の方にお連れして諫めています。ペトロ自身は、主イエスの側に立っているつもりでいるのです。けれども、主イエスの側に立っているつもりのその行動が主イエスから叱られてしまうところを見ますと、弟子たちが主イエスから「人の子としての救い主の働き」を教えられた時に、どんなにその言葉を飲み込めなかったか、理解できなかったかということが分かります。
 マルコによる福音書では「いさめた」としか記されていませんが、マタイによる福音書を見ますと、16章22節に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」と、ペトロが主イエスを諌めた言葉が記されています。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」、ペトロはこの言葉をどういうつもりで言っているのでしょうか。明らかにこれは、主イエスの側に立っているつもりで、主イエスの身を案じて申し上げているのです。ペトロ自身の思いからすれば、決して主イエスを邪魔立てしようなどというつもりはないのですが、しかしペトロの行動は、自分でも気がつかないうちに、結果的には主イエスを十字架から逸らしてしまう、そういう誘惑者の役割を果たしているのです。

 主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをどう思うのか」とお尋ねになり、「あなたは、メシアです」という返事をお聞きになりました。その時から主イエスはもう既に、まさにメシアとしての行動を開始しておられます。人の子として、十字架にかけられ他の人のために命を失う、そういう救い主として、主イエスはエルサレムの十字架に向かうという覚悟を決められ、歩み始めておられます。そして、主イエス御自身が十字架に向かって実際に歩みを始められたからこそ、弟子たちに向かって、「本当の救い主は、地上の王たちのように華々しく勝利するような者ではなく、十字架に向かって歩む救い主なのだ」ということを教えようとなさったのでした。
 ところがペトロは自分でも気がつかないうちに、ペトロとすれば精一杯に主イエスへ好意を注いでいると思い込んでいる、その最中にあって、主イエスがまさにエルサレムの十字架へと歩み出される、その救い主としての歩みを邪魔立てする者となってしまいました。
 主イエスはすぐに、これがペトロ自身の思いというよりも巧妙にサタンがペトロを操ってそうさせているのだということを見抜かれました。サタンにしてみれば、主イエスを十字架から逸らしてしまえば、それで目的は達成できるのです。あるいは主イエスの十字架が起こった後でも、私たち人間を十字架の主イエスから逸らしてしまえば、それで目的は達成できるのです。どうしてかというと、人間はいつもサタンに対して無力だからです。
 自分自身を顧みれば分かることですが、私たちの普段の思いはどうでしょうか。良いことばかり考え、いつも朗らかに充実した生活をできるかというと、そんなことはありません。私たちが始終思うこと、くよくよ思うことというのは、いつも悪いことで、そして自分が傷つけられた悲しい思い出や、誰かに対して不満を持ったり、あの時は嫌だったというような思いばかりです。「主イエスによって罪を赦され新しくされている。神から愛されている」ということを忘れ、主イエスの十字架から切り離されてしまう時に、私たちは、言うなればサタンの手下みたいにして生きて行く他ないのです。
 サタンはそのように人間を支配出来るという自信を持っているので、ペトロに入り込み、「イエスさま、そんなことがあってはなりません」と言わせているのです。

 主イエスはそういうサタンの働きを見抜いて、ペトロを叱りつけられたのですが、叱りつけた時に、振り返って弟子たちをご覧になったと言われています。33節に「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」とあります。
 この時、主イエスが振り返って弟子たちをご覧になったのはなぜでしょうか。主イエスを諌めて叱られたのはペトロですが、他の弟子たちもペトロと同じ思いだったからだと説明する人がいます。そういう意味では、「振り返って、弟子たちを見ながら」というのは、弟子たち全員を叱りつけたことを表す言葉だと説明されることがあります。
 もちろん、そうだったかもしれません。ペトロ一人だけが不用意な行動をしているのではなくて、他の弟子たちも、神の御業が行われるということよりは、今自分たちの周りにある親しい交わりがずっと続くことの方がよほど大事に思えていたかもしれません。

 けれども、ここで主イエスが振り返っておられるその仕草というのは、よく考えると、ペトロや弟子たちを叱りつけるという以上の、もっと他の意味があったかもしれません。
 主イエスはメシアとしての、人の子としての働きをするのだと決心なさってからは、後の箇所にも出て来ますが、従う弟子たちが恐れるほどに、一心にエルサレムの十字架を目指して歩んでおられます。
 その主イエスが振り返って弟子たちを顧みておられる、それは、主イエスが弟子たちを置き去りにして御自身だけが救い主の御業に向かって行こうとなさるのではなくて、何度説明されても主イエスの救い主としての働きが飲み込めないような弟子たちであっても、決して見捨てず一緒に連れて行こうとなさっているということではないでしょうか。そのために主イエスは弟子たちを振り返り、「サタンに捕らえられないように」と戒めてくださっているのです。

 今日ここにいる私たちも、そういう主イエスの顧みのうちに置かれ、ここまで招かれ導かれて信仰生活を生きていると言えるのではないでしょうか。主イエスは間違いなく私たちを顧み、私たちが主の救いの業の中を歩んで、「主と共にいることができるように」と配慮してくださっているのです。
 今日聞いている聖書の言葉は「受難予告」と言われます。しかしこれは、ただこれから十字架に架かるということを情報として伝えているだけではありません。主イエスが私たち人間のために十字架に向かって歩んでくださる。そしてそこには、私たちも一緒に連れて行かれている。そしてまさに十字架の上で私たちの罪の赦しが行われる。「あなたはあの十字架によって赦された者なのだ」ということを、主イエスは繰り返し繰り返し、私たちに語ってくださるのです。

 主イエスがどこまでも私たち一人ひとりを顧み、私たちに伴い、「罪を赦され、神に慈しまれている大切な一人一人として歩んでいけるように」導いてくださいます。
 主に導かれ、神の慈しみを日毎に頂きながら、ここからまた歩み始めたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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